母ユミ子の11年目の命日
いまだ息災でいると
いまも仕事に励んでいると
いまは身体と相談しいてると
これからも家族仲良くすると
伝えたいことも伝えられない
もどかしさのなかで母を想う
感謝したいことも話せない
唇を噛みしめつつ母が愛おしい
苦労の涙を拭うことができない
子らを抱きしめた母を慕う
戦中樺太敷香に大阪から叔母を頼って渡った
戦後大阪に戻ると祖父勢吉から手紙が来た
予科練帰りの父國一の嫁にと所望された
身ひとつで昭和23年津軽海峡を渡った
最初の子を流産した
2番目に授かった子は男の子だった
私を祖父母は猫かわいがりした
他のきょうだいには寂しいおもいをさせたくない
母は三人の子らへもたくさんの愛情を注いだ
貧しい暮らしにめげず笑顔をふりまいた
関西人らしい冗談もよくして笑わした
泣くに泣けない事故が起こった
娘の琴代が享年19歳の若さで亡くなった
その悲嘆は生涯父母に影を落とした
父は一番の楽しみだったバイクの運転をやめた
免許証が返納され娘の死を悼んだ
母は大阪で電話の交換手をしていた
私が中学の頃からか幌別の電話局で交換手をした
その後登別温泉の第一滝本館で長く仕事をした
社内の電話交換手の応対を競う全道大会でも賞をもらう
高炉マンだった父と共稼ぎで子らの学費を工面した
私は教育大を卒業し教員になると奨学金が免除された
貧しいゆえに初学金がほしかった
教師になるも人とはひと味違う実践をして注目された
母の遺品に「かずより」と書かれた封筒があった
新聞や雑誌の記事が保存されていた
きっと知り合いに記事を手にして見せたのだろう
母にとって一番手を焼いた子が人様に認められた
それだけが母の喜びであり誇りでもあった
認知症を患ってからは何も理解できなくなった
大阪から戻った息子との穏やかな時間の記憶もない
伸びた爪を切る息子とのまどろむ時間が流れる
大学の講義を終えて立ち寄り学生のレポートをチェックする
世間話を一方的にするだけのなにもない時間もいい
危ないと知らされ1週間夜から朝まで付き添った
期限の迫ったレポートを打ちながら母の寝顔を見る
1週間後の朝静かに息を引き取った
母さん戻っておいでという声は虚しかった
いまも心に生きている
想い出しna
がら涙する
母に会いたいと
〔2024年3月30日書き下ろし。母ユミ子11年目の命日。最初の子を流産しなければ私の存在はない。どれだけ大事に育てられたのか。幼児の頃に着せられた服を写真で見ただけでも、どこから工面したのか信じがたい可愛がりようだった。様々な想い出が蘇ってくる〕