ロシアンスパイナー/パヴリチェンコ

リュドミラ・ミハイロヴナ・パヴリチェンコ

第二次大戦時のソ連の史上最高の女性スパイナー(狙撃手)

309名を射殺した

 

一発必中

敵を殺したのではない

ファシストを殺したと

 

武器も装具も貧弱な時代

遠距離から風向と風速を計算し狙い澄まして撃つ

非情な戦いにスパイナーとして挑み続けた

 

ソビエト連邦の英雄として

敵から恐れられた女性スパイナーは

ウクライナの人だった

 

もし彼女が生きていたら誰を狙撃するのだろうか

高性能の狙撃銃は光学照準器(スコープ)に敵を捉える

ファシストだと確信して引き金を引く

 

死を賭して戦うウクライナの女性兵士の勇姿に

パヴリチェンコの強い祖国防衛の意志が彷彿し継承される

 

 

リュドミラ・ミハイロヴナ・パヴリチェンコ

 

1916年帝政ロシアのウクライナのビーラ・ツェールクヴァで生まれる

国立高校を卒業し旋盤工としてキエフ兵器廠で働き始めた

後に大学検定試験に合格し国立キエフ大学文学部史学科へ進学する

大学の時に射撃の才能を見出された

 

1941年バルバロッサ作戦が始まる

ドイツ・ルーマニア・ハンガリー・イタリアがソ連領へ侵攻した

24歳の学生パヴリチェンコはキエフの赤軍事務所へ入隊を志願する

入営後の射撃教育でも非常に優秀な成績を挙げ正式にスパイナーとなった

PE4型望遠照準器(3.5~4.0倍率)を装着したモシン・ナガン狙撃銃を手に

1941年8月第54狙撃連隊に配属されオデッサの防衛の任務に就いた

 

赤軍は独軍の猛襲を受けウクライナでは撤退を重ねた

赤軍はスターリンの大粛清で指揮系統を担う高級士官の多くを失っていた

独軍の戦車師団による電撃戦に応戦できず赤軍はオデッサ軍港へ後退する

ここでパヴリチェンコら狙撃手には本隊を援護せよと最前線に残置された

進攻する独軍の前進をその狙撃によって遅延させよとの命令が下ったのだ

 

近付いて来たドイツ軍の指揮官・通信兵・狙撃手らを最優先に狙撃した

独軍の進攻は大幅な遅れを強いられた

パヴリチェンコは擬装して潜み通過する敵の後背や側面を衝いた

700~800mの長距離からの狙撃で多大な戦果を挙げた

 

パヴリチェンコは独軍に包囲されたオデッサから黒海艦隊の援護によって脱出した

約2ヵ月半で独軍の狙撃手10名以上を含む187名を射殺した

この功績と赤軍の指揮官不足で上等兵から少尉まで一気に昇進する

 

パヴリチェンコは狙撃銃をモシン・ナガンからトカレフSVT-40に変更した

遠距離射撃の精度に優れるが装弾数5発のモシン・ナガンよりも

得意とした後退戦闘や防御戦闘あるいは近~中距離での市街戦という状況下では

装弾数10発の半自動式のトカレフの方が扱い易いと判断した

比較的軽量な狙撃銃は赤軍の女性狙撃手たちの多くがこの銃を愛用した

 

オデッサから脱出したパヴリチェンコと第54狙撃連隊は次の戦場に就く

激戦の続くクリミア半島セヴァストポリに派遣されたのだ

1942年5月の時点で中尉に昇進しその確認戦果は257名にのぼった

6月セヴァストポリ要塞は独軍の1300門以上の大砲による徹底的な砲撃に晒された

地下陣地のほとんどを破壊されパヴリチェンコも迫撃砲弾の破片を受け負傷した

北コーカサスの赤軍病院に移送されてクリミア戦線を離脱する

独軍の砲撃開始から約1ヵ月後セヴァストポリはついに陥落した

 

約1ヶ月退院したパヴリチェンコは北コーカサスで再度前線に復帰し狙撃を続けた

軍はソ連の特に女性たちにその名を知らしめた英雄を失う事を恐れた

パヴリチェンコは前線を離れ新設された女子狙撃教育隊の教官に任命された

パヴリチェンコの第二次世界大戦における戦闘はその幕を引いた

 

前線を離れたパヴリチェンコは少佐に昇進した

当時は同盟国となっていたアメリカへ外交宣伝の一環として派遣される

ソ連の人間として史上初のフランクリン・ルーズヴェルト大統領との面会を果たす

面会後はエレノア・ルーズヴェルト大統領夫人の招待で共に各地を巡るツアーに参加

ワシントンD.C.での国際学生会議やニューヨークでの産業組合会議等でスピーチする

アメリカ海兵隊の訓練基地を訪れ狙撃手養成の為に講義も行う

帰国後の1943年パヴリチェンコはソ連邦英雄を受賞した

肖像は切手の図柄にも使用され文字通りの英雄として扱われた

 

パヴリチェンコは再び女子狙撃教育隊の教官として後進の指導に当たった

赤軍はその名声を利用して多くの女性を新たな狙撃手候補生として獲得したという

第二次大戦において赤軍は約2000人の女性スナイパーを戦場に送り込んだ

終戦まで生き残れたのはその内の500名に満たないとされる

 

1945年除隊したパヴリチェンコはキエフ大学に復学し再び史学科の学生となった

卒業後は海軍司令部の戦史課に就職1953年まで研究助手として戦史の編纂に携わった

1974年10月58歳で病死

遺体はモスクワのノヴォヂヴィシエ墓地に埋葬されている

その死後の1976年には再び切手の図柄に選ばれた

 

※フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から経歴を引用した

 

[2022年7月1日書き下ろし。三日前、映画『ロシアン・スナイパー』(原題:BITVA ZA SEVASTOPOL/BATTLE FOR SEVASTOPOL。ロシア・ウクライナ合作、セルゲイ・モクリツキー監督、2015年)を観た。実在した女性スナイパー、リュドミラ・パヴリチェンコの戦場での活躍を描いた戦争映画だった。祖国防衛の戦闘精神やファシストとの揺るぎない闘争心の源に彼女がウクライナ人であることを知った]


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