天ぷら再考
この時期のタランボの芽を天ぷらにして食すのが、最高の旬の味だ。目にやさしい若菜の彩りと香りと苦みを薄い衣に閉じ込め、口にした瞬間に広がるほろ苦い甘みは応えられない。
子どもの頃、近くの山でトゲトゲのタランボの木を見つけては、その枝の先に芽があると嬉しくなってもいできた。その芽を母が天ぷらにあげ、父の酒菜(さかな)になった。
その父が、「これは天ぷらだ」「天ぷら野郎だ」と、よく口にした。子ども心に疑問に思っていたが、なんのことはない。「まがい物」という意味だ。厚い衣を着た天ぷらのように,中身のないちんけなものや人を指したコトバであった。
さて、赤字財政、原発、増税、防衛など問題が山積する国政は、国民のさらなる不信を増幅させているが、身を粉にして保身に走る方々の粉は天ぷら粉になり、さらに厚顔無恥な立派な衣となった。
世間では、身を削る現実の中で衣などとうの昔に剥がされて生きている人だらけである。井戸塀の政治家などは求めぬが、タランボの芽のような庶民の味であってほしいと願うのは身勝手か。巷(ちまた)にも「肩書き」という衣をまとい、天ぷら同然の小心者が闊歩する。せめて、その身の程知らずのしたたかさにあやかりたいものである。
[2012年4月、道新の「朝の食卓」に寄稿したエッセイである。11年も昔のことだとは思えない世相をつぶさに垣間見た]